天平宝字7年(763年)唐招提寺で死去(遷化)した。 享年76歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法 両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)。 これが日本最古の肖像彫刻とされている。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 鑑真の用語解説 - [生]垂拱4(688).揚州,江陽[没]天平宝字7(763).5.6. 1 馬車や農機などの車輪が動かないよう、所定の穴に指して固定するピン。2 (比喩的に)物事の要(かなめ)。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 芸人、アイドル、声優、スポーツ選手、化学物質、クラシック音楽、妖怪などなど、色んな物の知名度ランキングがわかるサービスです。知らないジャンルを学んだり、知ってるジャンルを掘り下げるのにお役立て下さい。 奈良時代、何度も遭難し、生命の危険を冒してまで、唐(現在の中国)から来日した鑑真和上。その目的は何だったのでしょうか。また、現代の遣唐使ともいうべきフェリー・鑑真号も取り上げて、具体的に説明、年表で整理します。, 14歳の時に仏門に入り、20歳から律宗・天台宗を学びます。律宗は仏教信者の守るべき道徳的規範などの規則である「戒律」を重んじる宗派です。, 742年、日本からやって来た僧侶たち(栄叡、普照)に懇請されて来日し、授戒制度を伝えることで日本の仏教の発展に貢献しました。, 仏教によって国を治めようとしていた朝廷は、寺院建設のために人々に重税を課す一方、僧侶に対しては一部の税を免除していたため、重税を逃れるためだけに僧侶になる人が後を絶ちませんでした。, 当時の日本では、自ら宣言すれば僧侶になれる自誓授戒が主流で、誰でも僧侶になることができたのです。, 修行をせず、戒律も守らない名ばかり僧侶の急増で社会秩序が乱れ、困った朝廷は、仏教制度を整備しようと、ふたりの日本人僧侶を唐に派遣し、日本の仏教を正しい道へ導いてくれる人材を探しました。, 現在の感覚では中国は、飛行機で2,3時間で気軽に行ける国ですが、当時は船しか交通手段がなく、航海技術も未熟だったため、日本へ渡るには命がけの覚悟が必要でした。, 日本からやって来た二人の僧侶は、当初、鑑真に依頼してその弟子たちに渡航者を募ったものの、危険過ぎて誰も手を挙げませんでした。そのため、鑑真自ら日本へ行くことを決心しました。, 鑑真は、その時すでに名の知られた僧侶だったために、「日本へ行かせるのはあまりに惜しい」と皇帝の命令で唐からの出国を禁じられていました。, ある時は鑑真を惜しむ同行の僧侶による密告、ある時は弟子からの妨害、そして台風などの天候不良、暴風による海南島への漂着などのために、合計5回も渡航を試みることになりました。, 来日時には、渡航を決意してから10年以上が経過し、鑑真は苦労を重ねたために両目が見えなくなっていました。, 実は、失明した理由と時期には諸説あり、一般的には、来日前の渡航で失明していたといわれています。, 鑑真は、5回目に日本への渡航を試みた際に、暴風のため日本よりもずっと南の海南島へ流されました。, この時、ずっと一緒に行動してきた日本人僧侶の栄叡を病気で亡くした上に、最も信頼していた弟子をも亡くすことになります。, あまりのことにいっそ天竺(インド)を目指そうとしたほど落胆し、熱帯の気候にあてられて疫病にかかったため失明したとも、白内障になりその手術で失明したとも言われています。, 最近では来日後に鑑真が自ら書いたと思われる書物が存在することから、最晩年に目を悪くしたという説もあります。, 鑑真は、754年に東大寺に戒壇という、いわば僧侶の免許センターのようなものを設置して、聖武天皇をはじめとする430人に授戒を行いました。, これ以前に僧侶となっていた者も改めて授戒を受け、その後は戒壇で授戒を受けなければ、僧侶になることはできなくなりました。, 759年には、朝廷から新井田部親王の旧宅を与えられ、戒律研究の拠点として唐招提寺を開きます。, 平安貴族の文化となっていく香合というお香を調合する技術を伝えたのも、薬の概念すらない日本へ漢方薬を伝えたのも鑑真です。, 鑑真が日本へ渡航してきた際の積荷リストには複数のお香や漢方薬などの記載があり、そのことがわかります。, この航路は戦後初めての海上ルートとして1985年に作られ、2日かけて日本と中国を結んでいます。, その名はもちろん、日本へ唐の文化をもたらし、日本の仏教のみならず文化の発展にも貢献した鑑真からとられています。, 1994年には現行の「新鑑真号」となり、その名の由来となった鑑真和上のように文化・経済交流の発展に大きな役割を果たしています。. ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 鑑真の用語解説 - [生]垂拱4(688).揚州,江陽[没]天平宝字7(763).5.6. 中国オペラ「鑑真東渡」の公演が日本で開催---中日国交正常化45周年を記念する、江蘇省演芸集団有限公司によるオリジナルオペラ「鑑真東渡(とうと)」の公演が5日、再び東京で行われた。 また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 7日、湖南衛星テレビの人気音楽番組「歌手singer」に海外枠で参加した日本の女性歌手・misiaのパフォーマンスが、完璧だったとして中国のネット上で話題となっている。9日付で中国メディア・騰訊網が … 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 中国唐代の僧。日本の律宗(りっしゅう)の祖。過海(かかい)大師、唐大和上(とうだいわじょう)などと尊称される。揚州(江蘇(こうそ)省)の人。俗姓は淳于(じゅんう)。揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、南山律(なんざんりつ)の道岸(どうがん)(654―717)によって菩薩戒(ぼさつかい)を受け、その後、長安の実際寺で恒景(こうけい)を戒和上(かいわじょう)として具足戒(ぐそくかい)を受けた。洛陽(らくよう)、長安に住すること5年、その間に三蔵(さんぞう)を学び、道宣(どうせん)の弟子融済(ゆうさい)、満意の門人大亮(たいりょう)らに律学の教えを受け、また天台も兼学した。揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、江准(こうわい)の化主(けしゅ)と仰がれ、その名声はとどろいた。そのころ733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)(?―749)、普照(ふしょう)(生没年不詳)が授戒伝律の師を求めて入唐(にっとう)していたが、742年に二人が鑑真を訪れ、弟子のなかに日本に渡って律を伝える人がいないか、募ってもらうよう請うた。それが機縁となり、鑑真は弘法(ぐほう)のため不惜身命(ふしゃくしんみょう)の思いに燃え、自ら弟子を率いて来朝した。来朝まで5回も渡海に失敗し、あるときは同行の僧の密告や弟子の妨害によって未然に終わり、あるときは海に乗り出してから風浪にもてあそばれて難破し、あるときは遠く海南島に流される労苦を味わい、12年の歳月を要して来朝した。その間、栄叡や弟子祥彦(しょうげん)の死に会い、自らも失明するに至っており、海路、陸上の旅で世を去ったもの36人、望みを放棄して彼のもとを去ったもの200余人に及んだ。しかし渡海の失敗が重なる間も、鑑真は各地で伝道教化(きょうげ)に励んだ。鑑真の伝記には在唐中の活動が総括されており、百数十遍の各種律典を講じ、寺舎を建立し、十方(じっぽう)の衆僧を供養し、さらに、仏像をつくること無数、一切経(いっさいきょう)を書写すること30部、戒を授けること4万有余に及んだ、と伝える。, 753年(天平勝宝5)薩摩(さつま)(鹿児島県)坊津(ぼうのつ)に到着、翌754年入京した。聖武(しょうむ)上皇はその労をねぎらい、詔(みことのり)して鑑真に授戒伝律の権限を委任し、自ら鑑真を戒師として東大寺大仏の前で登壇受戒した。また従来の僧も旧戒を捨てて受戒し、ここに、かつて日本で行われたことのない10人の僧による三師七証(さんししちしょう)の受戒が成立した。翌755年には戒壇院(かいだんいん)もつくられ、それまでの度牒(どちょう)にかわって戒牒(かいちょう)を授ける制度が確立された。上皇崩御(ほうぎょ)後の756年(天平勝宝8)には大僧都(だいそうず)に任じられたが、老齢のためその任を解かれ、戒律の教導に専念することとなり、大和上(だいわじょう)の称が与えられた。759年(天平宝字3)、かねて与えられていた新田部(にいたべ)親王の旧宅をもって寺とし、これを唐招提寺(とうしょうだいじ)と称し、戒律研鑽(けんさん)の道場として衆僧に開放する制をたてた。また官寺における布薩(ふさつ)のための経済的裏づけを行うことと相まって、仏教の協同体意識を養い、いわゆる教団(僧伽(そうぎゃ)、サンガ)が初めて名実ともに確立するに至った。彼が将来したもののうち、天台典籍(てんせき)はのちに最澄(さいちょう)の天台宗開創の基盤となり、王羲之(おうぎし)父子の真蹟(しんせき)は書道の興隆に多大の影響を与えた。ともに来朝した弟子に法進(はっしん)(709―778)、思託(したく)(生没年不詳)などがあり、法進は戒壇院を継ぎ、思託は鑑真の伝記『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』(略称『大和上伝』)3巻を書いた。この書は現存しないが、これを略述した真人元開(まひとげんかい)(淡海三船(おうみのみふね))の『東征伝』1巻が現存する。鑑真の墓所は唐招提寺にあり、開山堂には国宝の鑑真像を安置する。, 『安藤更生著『鑑真』(1967/新装版・1989・吉川弘文館)』▽『石田瑞麿著『鑑真――その戒律思想』(1974・大蔵出版)』, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …この仙薬は,金,銀,水銀,ヒ素などの重金属を主成分とするもので,用量をすぎれば,かえって寿命を縮める結果になる。鑑真が来日して名声を得た理由の一つには,彼の医学知識,なかんずく上記の仙薬による中毒の治療法を知っていたためともいう。[鎌倉・室町時代] 12世紀になると,貴族政治が衰退し,各地の豪族が覇権を競い,最終的に鎌倉幕府によって統一される。…, …天平宝字年間(757‐765)の権力者藤原仲麻呂の父,武智麻呂の伝記を著したのをみると,藤原南家と親しい,家僧のような地位にあったものか。753年(天平勝宝5)唐僧鑑真が来朝し,翌年入京して東大寺にもうで,良弁と会話した際,延慶が通訳をつとめた。鑑真に大和上位を,思託らその従僧に和上位を贈った際,延慶にも和上位が贈られた(《東大寺要録》大和尚伝)。…, …このとき唐から銀青光禄大夫光禄卿の官職を授けられた。《唐大和上東征伝》によると,帰国にあたり大使藤原清河らとともに揚州におもむき,鑑真に日本への渡航を要請,大使の判断にさからってひそかにみずからの船に乗せ,来航せしめた。同年薩摩の秋妻屋浦に着き,翌754年大宰府を経て上京,左大弁正四位下となった。…, …また海賊の根拠地でもあり,唐代より多数の商船が略奪に遭い,明代には倭寇鎮圧のため海南兵備道を置き,警備を厳重にした。唐代には,有名な僧鑑真らが日本渡航の際,748年(天宝7)にここに漂着した。古くより蛮夷の地として,官吏,文人が流されたが,唐の李徳裕や宋の蘇軾(そしよく)などが著名である。…, …つまり,穀物法の廃止と同じ動機に動かされたものである。【川北 稔】【日本人と砂糖】 日本に初めて砂糖が伝えられたのは,754年(天平勝宝6)に来朝した鑑真(がんじん)によってであるとされることが多い。それは鑑真の第1次渡航のさいの積荷の中に〈石蜜〉〈蔗糖〉の名が見えるためで,この石蜜を氷砂糖とする説も多い。…, …【岩松 浅夫】 受戒は僧尼となる修道の基本的条件として重視され,中国では智首(569‐635)や道宣(596‐667)らにより研究流布された。日本でも司馬達等(しばたつと)の娘善信尼は588年(崇峻1)に百済に渡って受戒・戒律を学んだし,仏教の隆盛とともに自度僧が乱出したため,受戒制度の必要が痛感され,753年(天平勝宝5)唐僧鑑真一行の来航となった。三師七証の10人による受戒制はここに確立し,754年4月に東大寺大仏殿前に仮設の戒壇が設けられ,聖武上皇,光明皇太后などが菩薩戒を受け,沙弥など400余人が一行より受戒,翌755年10月に常設の戒壇院が大仏殿の西方に創建された。…, …南朝宋の大明年間(457‐464)に開かれたので大明寺と称したが,のちに法浄寺と改めた。渡海前の鑑真が住持であった寺で,境内には清代に復興された天王殿や大雄宝殿等の伽藍のほか,1963年に鑑真和上遷化1200年記念として唐招提寺金堂を模して建てられた唐代様式の鑑真紀念堂がある。80年4月,鑑真像の里帰りを記念して,鑑真在住当時の寺名の大明寺に復した。…, …古くは唐律招提寺ともいわれ,単に招提寺ともいう。唐僧鑑真の開基にかかり,今日,金堂,講堂,鐘楼,鼓楼,東室,経蔵,宝蔵,閼伽井(あかい)(醍醐井)などの伽藍が白砂青松の中に規矩整然とのこり,奈良時代寺院の面影を今に伝える唯一の寺である。12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした鑑真とその随伴の諸僧は,東大寺唐禅院に留住していたが,758年(天平宝字2)僧綱の任より解放された鑑真は,平城右京5条2坊にあった新田部親王の旧宅の地を拝領し,757年に賜った備前国の水田100町を財源として当寺を創建した。…, …奈良時代に,日本に律宗を伝え唐招提寺の開祖となった唐僧鑑真(がんじん)の事績を描いた絵巻。鎌倉時代における南都旧仏教復興の機運を背景として,1298年(永仁6)鎌倉極楽寺の開山忍性が六郎兵衛蓮行なる画工に描かせ,本山唐招提寺に施入したことが奥書や端書によって知られ,現在5巻本として唐招提寺に所蔵されている。…, …735年9月新田部親王を弔ったが,同年11月みずからも没し,太政大臣を贈られた。鑑真来朝の結果を生む戒師招請は,親王の発議による。子孫で非業の死をとげるものも多かったが,中には清原真人となったものもあり,右大臣夏野はその一人である。…, …奈良時代仏教とともに日本に伝来した香木は,供香(そなえこう)として用いられ,儀式のおりには空薫(香)としても使用されたが,その範囲は宮廷に限られた。香道家は唐招提寺を創建した鑑真和上が日本における薫物の始祖と考えている。鑑真は来日の際,沈香木,麝香,甲香,甘松,竜脳,占糖,安息,桟香,零陵,青木,薫陸(くんろく)などを将来したと推察されている。…, …3宗のうち,相部宗と東塔宗はまもなく衰微し,南山律宗のみが栄えて宋代まで伝えられた。日本の栄叡(ようえい)と普照は相部宗を伝え,辛苦の末に来日した鑑真が南山律宗を伝えたのであり,宋の元照(がんじよう)(1048‐1116)の律解釈は泉涌(せんにゆう)寺の俊芿(しゆんじよう)によって早速に日本にもたらされた。なお,義浄は《根本説一切有部律》を将来し,これこそ最も純正な律であると信じ漢訳したが,律宗にたいした影響は与えなかった。…. 歴史. 大明寺は、隋代仁寿元年(601年)に創建された。初名は栖霊塔。諺賛に曰く「中国の尤峻特者」。, 唐代天宝元年(742年)、日本へ仏法や戒律を伝えた高僧鑑真が住職となっていた。会昌三年(843年)、大火で九層の栖霊塔が焼失した。, 明代万暦年間、揚州知府呉秀は寺院を再建した。崇禎十二年(1639年)、漕御史楊仁愿は寺院を再建した。, 清代乾隆三十年(1765年)、乾隆帝から「法淨寺」の額を賜った。咸豊三年(1853年)太平天国の乱の火難で、寺は全焼した。同治九年(1870年)は寺院を再建した。, 中華民国四年(1915年)、住職僧昌泉と程禎祥が資金を募り全面重建し、1947年に落成した。, 1957年8月、江蘇省人民政府は当寺を江蘇省文物単位に認定した。1958年、江蘇省人民政府は当寺を江蘇省保護単位に認定した。, 2005年6月5日、釈星雲の呼びかけで、台湾仏光山文教基金会が5000余万元を寄付して鑑真図書館を建造、2007年5月18日に落成した。, 2006年5月25日、中華人民共和国国務院は当寺を第六批全国重点文物保護単位に認定した。, 2014年4月21日、福田康夫元首相は江蘇省揚州市の大明寺鑑真記念堂を訪れ、「心連心」と揮毫し、その書を大明寺に贈った[2]。, 座標: 北緯32度25分18秒 東経119度24分30秒 / 北緯32.42167度 東経119.40833度 / 32.42167; 119.40833, http://www.e-asianmarket.com/yangzhou/yangzhoutemple01.html, http://j.people.com.cn/94638/94659/8606340.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=大明寺_(揚州市)&oldid=78441913, 栖霊塔(唐代に火事で焼失し、その後宋の時代に再建された栖霊塔も明代の末期に戦乱で消失してしまうという歴史を辿った。1996年再建。), 鑑真記念堂(鑑真の逝去1200周年を記念するために建てられたもので、建築全体のスタイルは唐の時代の建築様式を参考にして、1973年に完成された。設計者は, 鐘楼と鼓楼(2000年建立、唐代の建築様式、全体の建築構造は唐招提寺の鼓楼の構造が参考とされたという。). No reproduction or republication without written permission. 大明寺は、隋代 仁寿元年(601年)に創建された。 初名は栖霊塔。諺賛に曰く「中国の尤峻特者」。 唐代 天宝元年(742年)、日本へ仏法や戒律を伝えた高僧鑑真が住職となっていた。 会昌三年(843年)、大火で九層の栖霊塔が焼失した。. 奈良中国,唐の僧,日本律宗の開祖。大雲寺の智満について出家し,道岸,弘景,融済らに師事して律と天台を学ぶ。のち揚州の大明寺で律を講じた。 中国船らしく船内には麻雀室を備えている。船名の由来は、失明や遣唐使の難破など度重なる苦難を乗り越えて来日を果たした唐代の中国僧・鑑真。 先代の鑑真の代船として尾道造船で建造され、1994年に … 鑑真は日本限定の歴史的人物と考えられがちだが、中国でも意外なほど知名度があるようで、2007年には中国中央テレビ(cctv)で連続ドラマ「鑑真東渡」が全16話構成で放映された(鑑真役は遅重瑞)。 鑑真和上は688年、唐に生まれました。 14歳の時に仏門に入り、20歳から律宗・天台宗を学びます。律宗は仏教信者の守るべき道徳的規範などの規則である「戒律」を重んじる宗派です。 その後、僧侶の資格を与えることができる「伝戒師」になりました。 742年、日本からやって来た僧侶たち(栄叡、普照)に懇請されて来日し、授戒制度を伝えることで日本の仏教の発展に貢献しました。